2021年11月06日
コメントから考える
「三度目の正直とはなりませんでした(11/2投稿)」の投稿に寄せて頂いたコメントに気になる部分がありましたので、僕の考えを書いてみます。
<K・Sさんからのコメント>
有権者がみんな自ら考え、そして行動し投票する。理想だと思います。そうあるべきだとのお考えもよくわかります。
僕もそう思います。だけど現実は、必ずしもみんながみんなそう考えられるわけではない。むしろ考える人のほうが少ないのかもしれない。
考えることができない、余裕がない、誰かが代わりにやってくれるならそれでいい。
そう考える人のほうが多数いるから、自ら考える人や余裕のある人が考えることができない人達を引っ張っていく。これが組織なんじゃないかと個人的には思うんです。
これって本当に駄目なことなんですか?僕はそうは思いません。だから、またもし挑戦する気があるのなら、もしくは誰か後継者を立てようと考えているのなら、その点は次に生かさないと同じ結果になると思います。
<山の湊さんからのコメント>
「有権者がみんな自ら考え(上記K・Sさんのコメント)」からの一節は自分もほぼ同意見です。
誤解を恐れずに言えば、民衆というのは支配されたい集まりのではないでしょうか?より良いリーダーが"正しく導いて"くれる、自分たちはそれに付いていけばよい。
これらの心理が根底にあると思います。しかし"正しく導く"というところに民主主義の限界があるような気がしてなりません。
前のブログでも書き込みをしましたが、世界で最初に民主主義を成したギリシャ、アテネが衆愚政治に堕ちたという歴史の皮肉はご存知のことと思います。人類の英知はそれを乗り越えることも出来るかもしれませんが、歴史を学ぶことは大切だと思います。
政治は素人の自分ですが、自ら考えることを望んでない市民にそれを求めつづけることに勝算はあるのでしょうか?自分には答えがわかりません」
お二人の意見は、短期的な視点での見方と思います。長期的な視点に立てば、「考えることができない人達」の意識もかなり変わっています。
いつの時代も、少数のリーダーが時代を変えてきました。これまで通りでは自分たちの境遇も、社会も変わらないと考えたリーダーの存在が、「考えることができない人たち」の意識を変えてきました。
封建社会に民主主義という言葉は、考えられませんでした。いつも、少数の特権階級に、大多数の人たちが虐げられていました。
大多数の人たちは、これがあたり前と考え、自分の境遇を嘆くしかありませんでした。しかし、その大多数の人たちの中にも、何とかしなければならないと考える人もいたのです。
これらの人たちが、命までを犠牲にしながらも、次につながる人たちにバトンタッチしてきたのです。
そのバトンタッチが、現状においては不完全ではあるものの民主主義を作ってきました。
山の湊さんのコメントに、「民衆というのは支配されたい集まりのではないでしょうか?より良いリーダーが"正しく導いて"くれる、自分たちはそれに付いていけばよい。これらの心理が根底にあると思います。しかし"正しく導く"というところに民主主義の限界があるような気がしてなりません」
僕と山の湊さんの意見の相違がこのコメントにあります。「民主主義の限界」とは思いません。民主主義の未成熟が、「より良いリーダーが"正しく導いて"くれる」という意識なのではないでしょうか。
K・Sさんのコメントに、「自ら考える人や余裕のある人が考えることができない人達を引っ張っていく。これが組織なんじゃないかと個人的には思う」とあります。
このコメントに一部共感しながらも、組織の怖さも感じます。民主主義の未成熟な組織は、人々の考えを抑えつけていきます。
少数のリーダーが、自分たちの権力を維持するために、民主主義を徹底させないようにしてしまうのです。力で民主主義を抑えてしまうのです。
今回の市長選においても、組織の怖さが出ていました。近しい友人から「白井君を応援しているけど、会社から指示が出ている。誰が監視しているかわからないから、事務所には顔を出せない」との連絡がありました。
また、他の友人から「今度の市長選は、かなり建設関係の締め付けが厳しかったようだね」との声も聞きました。
新城市の将来を決める選挙が、組織側の有無を言わせない指示で歪められていたのです。
民主主義を進めるはずの選挙さえ、それも新城市という田舎の市長選でさえ、組織という利益団体が表に出てくるのです。
この状況が、山の湊さんの「衆愚政治」を今の新城市に作っているということを理解しなければ、新城市は消滅都市になる可能性をなくすことはできません。
ただし、「衆愚政治」の理解が、僕と山の湊さんでは相違があります。
因みに「アテネの衆愚政治」とは何なのかをネットで調べてみました。以下の文章が出てきました。
「古代アテネの民主政(民主主義ではない)がなぜ衆愚政治に陥ったかという問であれば、こう答えられます。
ひとつは、民主政治はリーダーの資質が大切で、大局的に判断する力、反対意見を受容するとともに説得する力、政治だけでなく芸術・文化などにも精通した教養、堂々とした信念とそれを実証するような弁論の巧みさ、貧しい市民や弱い立場の市民などからも支持を獲得する心の広さなど。
アテネの民主政はペリクレスのいう超大物がリードしました。その彼が病死し、適切な後継者がいなかったのが不幸の始まりです。
ペリクレス没後、アルキビアデスという男が民会で市民を唆し、シチリア島への遠征を決行させ、それが大失敗してアテネの軍事的優位が傾き始めます。
アルキビアデスという男が他の市民を騙せたのは、古代アテネが直接民主政で、大きな嘘で群衆の心を惑わせ、冷静な批判を封じ込めることができたからです。
ヒトラーの使った手と大差ありません。今の民主主義は国会議員という国民から選ばれた選良(中には例外も少なくありませんが)が、必ず反対意見を述べるなど批判勢力が存在します。
また、マスコミなどが政策の批判とともに国民に情報を与えるなど、一時的思い込みや興奮で政策が決定することはありません。
権力も立法、行政、司法と分立し、相互に牽制する仕組みです。 政治は結局のところ制度だけではだめなのです。指導者と国民の双方がしっかりしてないと国を滅ぼします。
アテネを衆愚政治とは笑えません。今の日本もこれからが国民にとって本当の試練なのだと思います」
新城市を持続可能な地域にするためには、良きリーダーと良き市民の両方が必要ということです。
良きリーダーを作るのは市民の力です。逆に、良き市民を作るのは良きリーダーです。
穂積市長は「自治」を強調しましたが、16年もかけた新城市の「自治」の到達はどうなっているのでしょうか?
後継を指名しないと言明した穂積市長でしたが、選挙戦では下江市長誕生のために、各種団体回りを精力的に行ったとの報道もされました。
「自治」を唱えた穂積市長が、自ら「自治」を壊して市長の座を降りたと言うのは、言い過ぎでしょうか?
<K・Sさんからのコメント>
有権者がみんな自ら考え、そして行動し投票する。理想だと思います。そうあるべきだとのお考えもよくわかります。
僕もそう思います。だけど現実は、必ずしもみんながみんなそう考えられるわけではない。むしろ考える人のほうが少ないのかもしれない。
考えることができない、余裕がない、誰かが代わりにやってくれるならそれでいい。
そう考える人のほうが多数いるから、自ら考える人や余裕のある人が考えることができない人達を引っ張っていく。これが組織なんじゃないかと個人的には思うんです。
これって本当に駄目なことなんですか?僕はそうは思いません。だから、またもし挑戦する気があるのなら、もしくは誰か後継者を立てようと考えているのなら、その点は次に生かさないと同じ結果になると思います。
<山の湊さんからのコメント>
「有権者がみんな自ら考え(上記K・Sさんのコメント)」からの一節は自分もほぼ同意見です。
誤解を恐れずに言えば、民衆というのは支配されたい集まりのではないでしょうか?より良いリーダーが"正しく導いて"くれる、自分たちはそれに付いていけばよい。
これらの心理が根底にあると思います。しかし"正しく導く"というところに民主主義の限界があるような気がしてなりません。
前のブログでも書き込みをしましたが、世界で最初に民主主義を成したギリシャ、アテネが衆愚政治に堕ちたという歴史の皮肉はご存知のことと思います。人類の英知はそれを乗り越えることも出来るかもしれませんが、歴史を学ぶことは大切だと思います。
政治は素人の自分ですが、自ら考えることを望んでない市民にそれを求めつづけることに勝算はあるのでしょうか?自分には答えがわかりません」
お二人の意見は、短期的な視点での見方と思います。長期的な視点に立てば、「考えることができない人達」の意識もかなり変わっています。
いつの時代も、少数のリーダーが時代を変えてきました。これまで通りでは自分たちの境遇も、社会も変わらないと考えたリーダーの存在が、「考えることができない人たち」の意識を変えてきました。
封建社会に民主主義という言葉は、考えられませんでした。いつも、少数の特権階級に、大多数の人たちが虐げられていました。
大多数の人たちは、これがあたり前と考え、自分の境遇を嘆くしかありませんでした。しかし、その大多数の人たちの中にも、何とかしなければならないと考える人もいたのです。
これらの人たちが、命までを犠牲にしながらも、次につながる人たちにバトンタッチしてきたのです。
そのバトンタッチが、現状においては不完全ではあるものの民主主義を作ってきました。
山の湊さんのコメントに、「民衆というのは支配されたい集まりのではないでしょうか?より良いリーダーが"正しく導いて"くれる、自分たちはそれに付いていけばよい。これらの心理が根底にあると思います。しかし"正しく導く"というところに民主主義の限界があるような気がしてなりません」
僕と山の湊さんの意見の相違がこのコメントにあります。「民主主義の限界」とは思いません。民主主義の未成熟が、「より良いリーダーが"正しく導いて"くれる」という意識なのではないでしょうか。
K・Sさんのコメントに、「自ら考える人や余裕のある人が考えることができない人達を引っ張っていく。これが組織なんじゃないかと個人的には思う」とあります。
このコメントに一部共感しながらも、組織の怖さも感じます。民主主義の未成熟な組織は、人々の考えを抑えつけていきます。
少数のリーダーが、自分たちの権力を維持するために、民主主義を徹底させないようにしてしまうのです。力で民主主義を抑えてしまうのです。
今回の市長選においても、組織の怖さが出ていました。近しい友人から「白井君を応援しているけど、会社から指示が出ている。誰が監視しているかわからないから、事務所には顔を出せない」との連絡がありました。
また、他の友人から「今度の市長選は、かなり建設関係の締め付けが厳しかったようだね」との声も聞きました。
新城市の将来を決める選挙が、組織側の有無を言わせない指示で歪められていたのです。
民主主義を進めるはずの選挙さえ、それも新城市という田舎の市長選でさえ、組織という利益団体が表に出てくるのです。
この状況が、山の湊さんの「衆愚政治」を今の新城市に作っているということを理解しなければ、新城市は消滅都市になる可能性をなくすことはできません。
ただし、「衆愚政治」の理解が、僕と山の湊さんでは相違があります。
因みに「アテネの衆愚政治」とは何なのかをネットで調べてみました。以下の文章が出てきました。
「古代アテネの民主政(民主主義ではない)がなぜ衆愚政治に陥ったかという問であれば、こう答えられます。
ひとつは、民主政治はリーダーの資質が大切で、大局的に判断する力、反対意見を受容するとともに説得する力、政治だけでなく芸術・文化などにも精通した教養、堂々とした信念とそれを実証するような弁論の巧みさ、貧しい市民や弱い立場の市民などからも支持を獲得する心の広さなど。
アテネの民主政はペリクレスのいう超大物がリードしました。その彼が病死し、適切な後継者がいなかったのが不幸の始まりです。
ペリクレス没後、アルキビアデスという男が民会で市民を唆し、シチリア島への遠征を決行させ、それが大失敗してアテネの軍事的優位が傾き始めます。
アルキビアデスという男が他の市民を騙せたのは、古代アテネが直接民主政で、大きな嘘で群衆の心を惑わせ、冷静な批判を封じ込めることができたからです。
ヒトラーの使った手と大差ありません。今の民主主義は国会議員という国民から選ばれた選良(中には例外も少なくありませんが)が、必ず反対意見を述べるなど批判勢力が存在します。
また、マスコミなどが政策の批判とともに国民に情報を与えるなど、一時的思い込みや興奮で政策が決定することはありません。
権力も立法、行政、司法と分立し、相互に牽制する仕組みです。 政治は結局のところ制度だけではだめなのです。指導者と国民の双方がしっかりしてないと国を滅ぼします。
アテネを衆愚政治とは笑えません。今の日本もこれからが国民にとって本当の試練なのだと思います」
新城市を持続可能な地域にするためには、良きリーダーと良き市民の両方が必要ということです。
良きリーダーを作るのは市民の力です。逆に、良き市民を作るのは良きリーダーです。
穂積市長は「自治」を強調しましたが、16年もかけた新城市の「自治」の到達はどうなっているのでしょうか?
後継を指名しないと言明した穂積市長でしたが、選挙戦では下江市長誕生のために、各種団体回りを精力的に行ったとの報道もされました。
「自治」を唱えた穂積市長が、自ら「自治」を壊して市長の座を降りたと言うのは、言い過ぎでしょうか?